2013年2月25日星期一

連載「ゲーマーのための読書案内」第54回:『コオロギと革命の中国』_1

 中国は上海で開催されたゲームショウのレポート記事が続々と掲載されている最中だが,それを意識しつつ今回は竹内 実氏の随筆『コオロギと革命の中国』を紹介しよう。  例えば上海市街の中心となるランドマークの一つ,人民広場から少し枻诵肖盲郡趣长恧松欷婴氪笸à辍钢貞c路」を,数ブロック南に行ったところに,贋作率が極めて高い感じの“骨董品街”がある。その向かいにはペットショップが数軒集まっていて,虫かごに入ったコオロギのみならず,コオロギ用の食器までもが売られている。ご存じの方はご存じのとおり,中国では現在でもコオロギを闘わせる賭博「闘蟋蟀」が盛んなのである。  そんな闘蟋蟀をめぐる個人的な体験から入って,竹内氏は闘蟋蟀のどうどうめぐりな戦いが連想させる中国の革命戦争,その構図を指摘した魯迅,魯迅が肌身離さず持っていた日本製の短刀といったふうに,興味深い逸話を披露していく。全体を通した話の中心は魯迅の文学なのだが,近代中国をめぐる得がたい随想録になっているのも確かだ。  中国近代文学の父といわれる魯迅は,割と大人げないところが魅力のニヒリストである。清朝末期から中華民国初期を生きた彼は,清朝とその科挙制度が滅び,袁世凱が皇帝となったものの周囲の猛反発のなか憤死,それぞれの正義を掲げる軍閥混戦がしばらく続いたあと,中国に一応の統一をもたらした蒋介石が,今度は中国共産党と革命の正統性をめぐって争うといった経緯を,日本留学から戻ったあと,つぶさに見ていた。  そして有名な「革命,ドラクエ10 RMT,革々命,革々々命……」という文章を書いたりしている。革命に革命を重ねることを,彼はマルクス主義的かつ前向きなアウフヘーベン(止揚)と捉えることなく,どちらかというとただのどうどうめぐり,空騒ぎと考える。それゆえに性急なスローガンに肩入れすることなく,文学を通して中国の有り様を発信し,中国人の意識に問いかけていったのである。  とはいえ,日本近代文学の父である夏目漱石のように,物事を気に病んで胃を壊したりするのではなく,割と攻撃的であり続けたところが魯迅の愛すべき点だ。例えば,有名な「阿Q正伝」はMMORPGと同じ清朝末期を背景としているが,「鹿鼎記」の主人公が革命党「天地会」との関係を疑われたのと同じく,主人公阿Qも革命党に参加した食うや食わずのプロレタリアートと疑われる。もっとも,残念ながら阿Qのほうは,その疑いを晴らせぬままに終わるのだが。  いわば「阿Q正伝」全編が,革命をめぐる空騒ぎの風刺となっているだけでなく,魯迅は実にちまちまと,国民党の理論家である胡適の発言を揶揄した文章を作品に織り込んでいたりして,油断できない。社会的な側面でも,対立する文学者と新聞紙上で堂々とやり合うとか,母親が勝手に決めた相手を終生妻と認めず,妻として扱うことがなかったなど,その大人げなさはある意味爽やかだ。  ちなみに,魯迅の形式上の妻である朱安には死の直前,たまたまさる日本人がインタビューしていたりして,このあたりの興味深いエピソードも,本書に収録されている。  その一方で魯迅の人間的な魅力が,その矛盾の深さ,一方で常に死と隣り合わせの悲観主義的な匂いから発しているのも事実だ。小説集である『吶喊』などを読むと,彼が庭の池にいるカエルをついばむ水鳥の殺生を苦々しく思うかたわらで,書棚に自分用の毒薬を常備していたことが吐露されていたりするが,「辱めを受けたらそれを直ちに雪ぐため」と本人が嘯いていたという日本製の短刀二振りの話が,本書では大きくクローズアップされている。  そして,同じく短刀を懐に日本留学時代を過ごしたうえで革命派として生き,刑死した秋瑾女史に対する魯迅のコメント,「彼女は(留学生達が集まって清朝打倒の革命を論じる場で)拍手されたがゆえに死ぬハメになった」を通して,やはり文学者たる魯迅の,一貫して革命に背を向けたヒューマニスティックな革命観が示される。  魯迅が亡くなったあとも,国共内戦,戦国IXA RMT,中ソ対立,文化大革命などという形で革命をめぐる“空騒ぎ”が繰り返された中国なのだが,栁骼鋺椁Kわり,改革開放政策がすっかり既定の路線となったいまの中国の人であれば,本書を興味深く読んでくれそうな気がする。  中国製ゲームが着々とクオリティを上げつつある昨今,本書を水先案内人として,魯迅が持っていたある意味の先見性に触れてみることも,どこかで役立つかもしれない。
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